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隔月第4日曜日午後2時から天王寺公園東口にて行なっています。


by nameken9

感動!「西村真(ま)琴(こと)と魯迅(ろじん)展」

感動!「西村真(ま)琴(こと)と魯迅(ろじん)展」
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 さる2/23(日)~25(火)、豊中市立中央公民館にて「西村真琴と魯迅展」が開催されました。西村真琴(1883年~1956年)といえば、東洋初のロボット学天則(がくてんそく)(大阪市立科学館にレプリカがある)を作ったことで有名です。
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          ロボット学天則と西村真琴(左)

 西村真琴の偉業はそれだけではありません。日本軍国主義による中国侵略戦争の猛威がふるうなか、軍部からの圧力をはねのけ、中国戦災孤児をこの大阪に引き取って育て上げたのです。その数68名。
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          西村真琴

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          魯迅

 こうした西村真琴の戦災救済活動を象徴するのが、1932年(昭和7年)2月戦乱で廃墟となった中国上海近郊の三義里街の一隅で、傷ついた一羽の鳩を大阪豊中の自宅に連れ帰ったエピソードです。三義と名付けられた中国の鳩を日本の鳩とつがいに、一つの鳩舎で家族同様に育てました。鳩の子供が生まれれば中国上海に送るつもりでした。ところが鳩の三義はイタチに襲われ死んでしまったのです。子鳩を上海に送ることはできなくなりました。西村真琴は鳩の三義の絵を描き「西東国こそ異へ子鳩等は親善あへり一つ巣箱に」(日中は戦乱のなかにあるけれどもこの子鳩たちを見てごらん。この巣箱の中には日中友好があるよ。)の歌を添(そ)え上海の魯迅に送りました。このとき魯迅は、西村真琴の中国戦災孤児を保護するなどの戦災救済活動を知ったのではないでしょうか。感激した魯迅は1933年6月、七言律詩「三義塔に題す」の不朽の名詩を詠み西村真琴に贈ったのです。
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            「三義塔に題す」の詩碑

 今現在、日中関係は国交正常化以来最悪の状態にあるといわれています。しかし、西村真琴と魯迅は今よりもはるかに厳しい日本軍国主義による中国侵略戦争の日中戦乱のさなか、日中友好の偉業を成したといえます。
 豊中は私の郷里でもあり、日中友好協会の役員を務める関係上、2/25(火)「西村真琴と魯迅展」最終日に受付係をさせていただきました。合間をみて展示を見て回りました。日中戦乱のさなかにあっても微動だにしない西村真琴と魯迅の日中友好に対する信念に触れ感涙にむせぶと同時に、「日中友好人士かくあるべし」と自らを律し、「日中関係を必ずや最悪状況から日中友好発展局面へ転換させるぞ!」の決意を新たにした次第です。
 最後にその後の西村真琴ですが、戦後すぐ1947年新制豊中市の初代市会議長(戦前から数えると5代目)就任、その後今回展示会のあった豊中市立公民館(現市立中央公民館)館長として文化芸術に数多くの足跡をのこすなど豊中市の発展に尽力しました。
 鳩の三義が死んだ時、近在の人たちが野面石を持ち込み三義のために塚を営みました。現在、塚石には重光葵(終戦時日本全権大使として米戦艦ミズーリ艦上降伏調印式に臨んだ外務大臣)の筆になる「三義塚」の文字が彫られ、魯迅の「三義塔に題す」の七言律詩の彫られた石碑(豊中市日中友好協会建立)と共に豊中市立中央公民館前にたたずみ、戦乱と言う最悪状況でも日中友好のまことは変わることなく連綿と続くことを雄弁に語りかけています。伊関 要
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            「三義塚」
1933年6月21日、魯迅が西村真琴に贈った詩「三義塔に題す」

奔霆(ほんてい) 飛熛(ひえん) 人の子をつくし
敗(はい)井(せい) 頽(たい)垣(えん) 餓(が)鳩(きゅう)をのこす
偶(たま)たま 大心(たいしん)に値(あ)いて火宅(かたく)を離(はな)れ
終(つい)に高塔(こうとう)を遺(の)して瀛(えい)洲(しゅう)を念(おも)う
精禽(せいきん) 夢(ゆめ)覚(さ)めて なお石をふくみ
闘士(とうし) 誠(まこと)堅(かた)くして 共(とも)に流(なが)れに抗(こう)す
劫波(ごうは)を渡(わた)り尽(つく)くせば兄弟(きょうだい)在(あ)り
相(あい)逢(お)うて 一笑(いっしょう)すれば 怨讐(おんしゅう)ほろびん

日本軍の飛行機の爆弾や銃火が中國人民を殺傷し井戸や垣をやぶり崩して町を荒廃させ、一羽の餓えた鳩をのこした。
たまたまその鳩が西村真琴博士の大慈悲心にあって火に包まれた家を離れたがとうとう死んで三義塚をのこし日本を(一つの気高い心の故に)記念している。
死んだ鳩は眠りから覚めて、かの古伝説に言う精衛の如く、日中間をへだてる東海を小石をくわえて埋めんとし、私と貴方(日中両国人民)は誠心かたく時流に抗して闘う。
 今は日中両国のへだたりははるかに遠いが長い年月を苦難して渡り尽くせば、日中両國の大衆はもとより兄弟である。その時逢ってニッコリすれば深いうらみも滅び去るだろう。
   一九三三、六、二十一 魯迅



by nameken9 | 2014-03-11 21:54